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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第3節 湖面の細波 [8]




「じゃあ、私はちょっと外でも散歩してくる」
 自分には関係のない話だろうし、ツバサだって、無関係な人間には聞かれたくないだろう。席を外すくらいの気ぐらい、利かせられる。
 そんなつもりで席を立ったのだが、意外にも引き止められた。
「まって」
 口を開いたのは、智論だった。
「待って」
 今度は口と共に右手を伸ばす。そうして、テーブルに乗せられた美鶴の左手に重ねた。
 暖かい。
 その体温に、美鶴は一瞬、身を硬直させてしまった。思わず智論を見下ろしてしまった。
 真っ直ぐな瞳だった。
 嘘や偽りなどといったものとは全く無縁の、少なくとも隠し事や小細工などを考えるような瞳には見えない。
「待って」
 智論は三度(みたび)同じ言葉を口にし、美鶴を見つめたまま息を吸った。
「あなたも、話を聞きに来たんでしょう?」
「え?」
 確かに美鶴は話を聞きに来た。だがそれは霞流慎二の事であって、ツバサの兄の事ではない。
 そう反論しようとする美鶴の言葉を、智論が先に制する。
「だったら座って」
 そうして今度は視線をツバサへ移す。
「最初に告げておくけれど」
 ハッキリとした、反論の余地など許さないほどの凛とした声でツバサと向かい合う。
「私はあなたのお兄さんについては、あまり詳しくはないの。会話を交わしたのも数度。ほとんど知らないに等しいわ。結論から言えば、今あなたのお兄さんがどこに居るのか、探すための手掛かりになるような情報を提供する事はできないと思う」
「え?」
 兄についてはあまり知らないと、そのような言葉は電話で聞いてすでに知っている。だが、やはりどこかで期待はしていたのだろう。ツバサは瞳を大きくして相手を見返した。
 ならばなぜ、自分は今日、ここに来たのだ? なぜあなたは会ってくれたのだ。
 多少理不尽とも思える抗議を思わず口に出してしまいそうになり、なんとか押し留め、だが抗議以外に思い浮かぶ言葉もなく、結局ツバサは無言のまま。
 そんな相手を智論は真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと、だがはっきりと声を出した。
「でも、何があったのかを話す事はできる」
「何が、あったのか?」
「そう。私が高校一年生の時に、何があったのか。あなたのお兄さんや、お付き合いをしていた織笠(おがさ)先輩や、そして」
 そこで智論は再び美鶴を仰いだ。
「慎二に何があったのか」
 美鶴はまるで力が抜けたかのように、ストンと椅子に腰をおろしてしまった。





 織笠(れい)は、どちらかと言うと大人しい生徒だった。他人と争う事など好まず、いつも教室の隅にひっそりと存在する生徒だった。だが、か弱い存在かと言えば、それとも少し違っていた。
 唐渓高校という環境には似つかわしくない、多くの生徒が一般人という言葉で蔑視するような存在であった為、入学当時は口汚い扱いも受けた。反論してこないのをよい事に一時はかなりエスカレートもしたようだが、そのような状況にあっても、織笠鈴はメソメソ泣いたり媚びたりするような態度も取らなかった。
 同級生たちはやがてつまらないと感じるようになり、気紛(きまぐ)れに無視をして楽しむ程度で、話題にも上らなくなった。だから智論は入学した時、上級生にそのような生徒が存在する事などまったく知らなかった。
「異端と思われるような存在は必ず噂となって下級生にも広まる。場合によっては唐渓中学の方へ情報が伝わる事もある。だから、織笠先輩の存在を知らなかったなんて、今考えても不思議だわ」
 智論は頬杖をつき、窓から琵琶湖を見下ろしながら、まるでつぶやくように語り続ける。
 風が吹いているようだ。湖面に細かな波が立っている。
「本当に、亡くなるまで知らなかったのよ」
 上級生が投身自殺をしたという噂は、翌日には学校中に広まっていた。校内でのいじめや教師による体罰などにマスコミが過剰反応するご時勢。学校は事を内密処理しようと試み、保護者側も我が子が面倒に巻き込まれるのを避けるため、生徒同士のつまらぬ口外を禁止した。変に物分りのよい唐渓生たちも、社会を上手に渡り歩く術として心得ているのか、悪戯に触れ回ったりネットに書き込みをしたりする事もなかった。
 だが現場が学校だったという事もあり、警察らしき存在もチラチラと出入りしていた為、噂が真実であると生徒たちは確信していた。







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